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青年江原会の歴史 第2章 藤崎宮秋季例大祭への参加

 青年江原会と藤崎宮秋季例大祭への参加
 「青年江原会」というと藤崎宮例大祭とは切っても切れない行事と思われるが、発足当時の雰囲気は現在とはかなり異なったものであった。青年江原会が発足して三年目、せっかく設立したものの「何か一つ物足りない」という声があちらこちらから聞かれるようになった。一方、当時の藤崎宮例大祭はといえば、今でこそ熊本市民熱狂の的となっているが、昭和50年の当時としては、まだ馬の数も少なく、参加団体も6団体程度に激減し、市民の関心も薄く、威勢がよいはずの掛け声も、秋風身にしむうら寒さであった。例大祭への参加の真の目的は、青年江原会に活力を吹き込むことのほかに、年々さびれゆく郷土の祭りの復興へ尽力しようというけなげな心意気でもあったという。

 最近の例大祭に対してのフィーバーぶりは高校OB会の参加によるものであることは衆目の一致するところだが、「青年江原会」の藤崎宮例大祭への参加が決議されたのは、昭和50年(1975年)3月のことであった。高宮宏初代実行委員長(高10)は、「我々の参加決定と同時に、済商会(済々黌商工会)も参加を決定したので、二同窓会の同時参加ということでマスコミが大きく取り上げ、一気に市民の注目を集めるニュースとなりました」と「青年江原会報復刊九号」に述べ、その後に初参加の際の悪戦苦闘の苦労談を詳しく述べている。かくして高校OB会は2校をもって誕生した。昭和54年には8校になり、やがて平成10年現在は、高校OB会だけで16団体、全部では62団体にまでになったのである。


 好評の高校OB会前夜祭演技
 藤崎宮例大祭への参加も四回目を数えるようになると、単に参加するだけではすまなくなる。いわゆる見せる「芸」というものが必要になってきた。折しも昭和53年(1978年)から高校OB会連合の前夜祭が始められることになった。いまや「熊本名物」となった前夜祭だが、最初の年は、又吉真企雄第四回実行委員長(高12)をはじめ昭和35年卒の出演者は、初めての経験にすこぶる苦労したとの語が伝えられている。ちなみに第一回の前夜祭の出場校は、済々黌、熊商、熊工、商大付、第二、と本校の6校であった。それから八年たった昭和61年(1986年)9月26日号の「青年江原会・特報版」によれば、その年の前夜祭演技について「やっぱ熊高が一番」の見出しをつけ、次のように報じている。

 またまた新企画の前夜祭。これまで三年間続けた「ドウカイ節」を入れたパターンを一新。幕開けはシンセサイザーというコリよう。明転するや16ビートの速いテンポの小太鼓と竹パーカッションに合わせ、古代衣装風の12名の舞姫が現れ鈴と短剣をもって踊る。これは藤崎宮例大祭の14日、献幣祭で舞われる舞を現代風にアレンジしたもの。振り付けは林田公百合先生。一転、大太鼓が鳴り響く。舞台に赤胴の太鼓が映え、片山、佐藤の両君が溝身(こんしん)の力で打ち鳴らす。と、客席二階中央から中太鼓がこれに和し、太鼓のかけ合いとなる。観客はこの絶妙の演出にざわめき、太鼓の音色に聞きほれた。息もっかせぬ演技の最後は、ドウカイのリズムにのって舞台狭しと踊り隊が踊り、ドライアイス・シャボン玉が乱れ飛び、祭りの華やかさは最高潮に達し観客は息をのむ。この企画演出は田中信明君。鳴りやまぬ拍手とともに会場から「やっぱ今年も江原会が一番ばい」の声が聞かれ、短期間ながら猛練習したその苦労も吹っ飛んだ。

 今やこの前夜祭は、音楽は編曲され、舞台は専門家に振り付けを依頼するなど、なかなか見ごたえある十分間(後に八分間)となっている。その時間も一秒の狂いもない年もあるという。出演の男性は全員江原会員だが、踊り子の女性は残念ながら今のところ全員が江原会員とは限らないそうで、病院の看護婦さん、OL、大学生など、中にはS校卒もいるとか。それでも最近は希望者が多く、選考して決められるという。昭和55年、同窓の俳優名和宏氏が能を舞うなど変わり種もあるが、ともかく毎年趣向をこらした演技が県民の呼び物となっている。



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