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藤崎八幡宮秋季例大祭 例大祭の豆知識 其の弐

 飾り馬は曵き馬だった
 飾り馬はもともと神職の乗馬であり、神職社家12家で計12頭と決まっていた。旧藩時代には家老職以下禄高3000石以上の格式ある細川家臣がその馬を奉納していた。藤崎宮が藤崎台にあった明治10年まで、お旅所(当時は井芹川の河原)との距離が近く、神職は乗馬せずに曵き馬としてこれを随え、徒歩でお供 していたために、いつの頃からか不要の鞍の上に飾りをつけ、馬駆けをするようになった。お旅所には竹矢来が作られ、その中で駿馬振りを競ったのであるが、それが馬追いの始まりである。

 永青文庫に残る絵図に見ると、口取りは短い手綱を両手で持ち、右肘を馬腹に支えて馬とともに疾走し、勢子は青竹をささらに割って打ち鳴して馬をはやしている。勢子は皆武家の奴姿である。竹矢来の外には桟敷が設けられ、見物の武士やその夫人、子供らが楽しそうに酒をのみ、弁当を食べている。町人は立ち見で囲んでいた。明治以降、馬は町方より奉納されるようになり、また藤崎宮が現在地に移転したこともあって、今のような馬追いになっていったのである。

 随兵のおこり
 随兵は加藤清正によって始められたものと一般には伝えられてきた。しかし、随兵行列は清正の肥後入国(天正16年、西暦1588年)より以前、既に文明 4年(1472年)の古記録にあるという。古くは社領を預る荘官・神人らが随兵としてお供したものと言われ、後に武家がこれを引き継いだ。清正については、朝鮮侵略の苦戦と惨めな敗北に命からがら帰国することが出来て、それを神の御加護として感謝し、既にあった放生会を復興し、自ら兵を従えて行列に加わった、というのが史料に基く真実と見られている。

 一部に言われるように「凱旋祝賀パレード」などでは、ありよう筈もなかったのだ。なお旧藩時代、随兵頭には若武者が任ぜられていたので、甲冑は「緋縅の鎧」となっている。(今は随分老けた若武者ですが・・・)

 例大祭のかけ声
 ボシタボシタのかけ声は「加藤清正が朝鮮出兵の後、この祭りで朝鮮を”滅ぼした”と囃させたのに由来している」というまことしやかな俗説もあるが、これは全く誤った謬論にすぎない。歴史的事実に照らせば、清正らの朝鮮侵略軍は明国軍や李舜臣などの朝鮮軍、それに僧までも起ちあがった広汎な民衆
の義挙によってさんざんに打ち破られ、這々の体で日本に逃げ帰ったのであった。蔚山籠城では極度の飢餓状態になって人肉を喰らう日本兵の図が「絵本太閣記」の挿絵にもある。清正が帰国できたのは奇蹟に近いことであった。だから神恩に感謝することはあっても清正らが「滅ぼした」とか「エーコロ、滅ボシタ」などと気勢をあげる筈はないのである。この俗説は清正公信仰ともあいまって江戸末期には流布していたようだが、明治以降日韓併合などの拡張政策、軍国主義の影響から一挙にこの謬論が浸透したものと思われる。いずれにせよ、ボシタは”滅ボシタ”とは全く関係がないことだけは明らかである。

 ボシタ朝鮮語説などもあるが、まだ定説はない。ただ幕末期の民衆は、「ボゝシタボゝシタ」と囃し、「茶碗ボゝ茶碗ボゝと申せり。・・・ケガナイという事を表したる也」と記した慶応元年の見聞記もあり熊日新聞の社説(平1.9.11)でも述べているように御穀豊穣を祈る民衆の中から自然に生まれた性の賛歌の囃し言葉というのが、現在、最も説得力のある考え方だ。



其の壱(由来)  其の参(神幸行列)  其の四(こぼれ話)





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