本文へジャンプ 管理者 青年江原会事務局
             

 

藤崎八幡宮秋季例大祭 例大祭の豆知識 其の壱

 祭りの由来
 例大祭の由来 ”ボシタ祭り”の愛称で知られる藤崎八旛宮秋季例大祭は、熊本第一の大祭であり、祭礼は5日間にわたって行われる。

 藤崎八旛宮は、平安時代の承平5年(西暦935年)、平将門と藤原純友が東西呼応して承平天慶の乱を起した時、朱雀天皇の勅願によって山城の国(京都)男山石清水八幡宮を肥後国飽田郡宮崎庄茶臼山(現在の藤崎台球場)に勧請されたのが、その起源である。以来、鎮西の大社として、神領800余町、神職社家12家、付属の神護寺4カ寺を擁し、社殿の結構も壮大なものであったという。旧藩時代は、熊本の総鎮守として、祭祀も造営も、一切肥後藩の藩費を以て支弁されていた。明治10年、西南の役で社殿などが焼失し、現在の井川渕に移転した。

 祭礼行事は由緒ある神社にふさわしく、その規模も大きい。秋季例大祭は9月11日の宮遷式にはじまり、献幣式、和歌・俳句の献詠、獅子・町鉾・神輿・神馬・飾り馬の飾り卸し、奉納相撲など別表に掲げる如く多彩な行事がくりひろげられる。が、なかでも15日の神幸式はこの祭りのメインイベントで、一大歴史絵巻を展開する。朝もやを破る藤太鼓の音とともに火玉・水玉・風玉や管蓋などがすすみ、続いて一の宮、二の宮、三の宮の御神輿が牛車に載せられて静々と通ると、沿道の氏子らが競うようにお賽銭を投げる。これに鎧・冑に身を固めた馬上の武者を先頭に、黄・赤の旗を背に翻しながら甲冑武者と長柄の槍の集団が続く。これがいわゆる随兵である。熊本では甲冑武者のことを「ツームシ」と呼ぶが、このツームシ100騎、長柄槍50本の行列は壮観であり、いかにも熊本人の武骨さを現わしているかのようである。いわばここまでが”静寂・厳粛”の部分で、これに続く異国情緒たっぷりの獅子舞いや神輿から少しずつ喧騒に変わっていく。祭りのハイライトは何といっても馬追いである。
飾り馬を”ボシタボシタ”のかけ声も勇ましく追いたてることから”ボシタ祭り”として一般には親しまれてきたが、しかし飾り馬は祭りの華ではあってもあくまで祭礼全体の一部であることを忘れてはならないだろう。

 この祭りを「随兵」とも称するのは、先に述べた甲冑武者の行列が印象的なものであるからだろうが別に「ホージョイ」=放生会とも呼ばれていた。それは神仏習合の時代に仏教にいう五戒の一、殺生戒から起った仏教行事として、鳥を山野に放ち魚を池沼河川に放流する放生会が、藤崎宮に付属する神護寺の社僧たちによって神幸式に併せて行なわれていたからである。藤崎宮の御神宝は国の重要文化財に指定されている「木造僧形八幡座像」と「木造女神座像」である。男神像は袈裟をまとった僧形で、女神像には額に水晶の白亳があって中に朱で描かれた阿弥陀如来像が蔵されている。これは日本古来の「本地垂迹」説(本地は仏様でインドから渡来し垂迹されて姿を変え神様になられた。従って同一の方だから神を拝んでも仏を拝んでも変わりはない)による神仏習合の生きた証でもある。従って藤崎宮にとって放生会は、今日の我々が感じるような異和感があろう筈はなく、むしろ重要な行事の一つであった。放生会は明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈によって廃止され、一時期名のみを留めたのであった。



其の弐(掛け声)  其の参(神幸行列)  其の四(こぼれ話)





ホーム
本ページ掲載著作物の、著作権、肖像権は全て青年江原会、及び会員個人に帰属します。
これらの無断での転載、転用を禁止します。なお、トップページのみリンクフリーです。

青年江原会
Copyright (C) SeinenKougenkai 2003-2005. All rights reserved